こんにちは、京大生ゆーはです!
この文章では私と同じように、世の中で言われる幸せについて疑問を持っている人や、それを求めなければいけないと言われているかのような生きにくさを感じている人に読んでいただきたいです。読んだ方たちが「自分の感覚は間違っていないかもしれない」と安心してもらい、そのうえで人生でやりたいこと、やるべきことについて考えるヒントになったらいいなと思います。
一般的に言われる幸せは確かに幸せかもしれませんが、それらは「限定的な幸せに過ぎない」ということを以下の普遍的根拠を用いて説明します。それが
①幸福の逓減性(一時性) ②不確実性 ③欲求増大性と相対性
です。言葉としては抽象的でちょっと入ってきにくいですね(笑) それでは整理しながら見ていきましょう~
こんな人におすすめ
- 社会で言われる典型的な幸せに対して疑問がある
- 自分がどんな幸せを目指していいか分からないまま過ごしている
- どこか今の生活や周りとの齟齬に悶々としていて、言葉にできない葛藤を抱えている。
- なんとなくで人生を終えるのはもったいないと思っている。
今がとても幸せな人には異端な内容かと思いますので読まないでください。
ここに書く内容は今の常識的な考え方に反するものですので、趣旨を理解していただくには、ある種の「謙虚さ」と「感情と切り離した客観的な見方」が求められるかと思います。
一般的な幸せとは
幸せなことといったら何を思い浮かぶでしょうか?以下の一部を書き記してみました。
人によっては、該当しないものもあるとは思いますが、典型的なものは、おいしいごはんを食べる、幸せな家庭を築く、旅行に出かける、あたりでしょうか。
これらはとても魅力的で人生を豊かにしてくれますよね。
一般的な幸せを、幸せだと思えず苦しんだ私の過去
私は大学に入学して以降、あらゆる幸せを今まで通りの幸せに感じない時期を経験して苦しみました。「何を目指していいか分からない」と閉塞感を募らせて無気力状態でした。
おいしいものを食べても、恋人ができても、友達と出かけてもどこか苦しい。思っていたほどの幸せの量を感じれないのです。このまま社会人になって老後を迎えるとなると、とても怖くて引きこもっていた時期がありました。
つまり、なんとなく「幸せなことに違いない、自分もそれらを得て経験していかなければならない」という見えない社会の圧力を感じてきたわけです。 本当にそうなのか?という疑問から始まり、経済学をヒントにそれらを整理して解決しつつあることから、それらを紹介していきます。
なぜ幸せでないと言えるのか
それでは本題に入りましょう。経済学では、何かなすことによって得られる主観的な幸福度や満足度を「効用」と呼んでいます。簡単に言うと、効用=満足度と当てはめればOK。
そしてこの一般的な幸せが「必ずしも幸せと示せない」普遍的根拠は冒頭にも書いた通り、
①効用の逓減=効用の一時性 ②効用の不確実性 ③欲求増大性と相対性が挙げられます。
ひとつづつ見てみましょう。
①幸せの「回数による逓減性」
分かりやすいように、例えばあなたがとても好きな料理屋さんの料理を想像してください。1口目の感動はとても大きく、それを100とましょう。すると、一般的に2口目にはそれを下回る満足度(ここでは95)になります。
1口目を最大値として1口あたりに感じる効用が低下し続けているのがグラフから読み取れます。
そして20口食べるころにはお腹と心がすでに満たされ、その一口を食べたこと自体の満足感はほぼ分からなくなっている=惰性で食べる状態。
厳密にいえば、「自分の大好きなものを食べている」というデータによる満足はあるものの、満腹になればどちらにせよもう新たな効用はほぼ生じないのは経験にあるのではないでしょうか?(むしろ無理に食べてマイナスの効用の場合もあり得る)
では、その日料理屋にいくことで感じる効用の合計のグラフはどうでしょうか。つまり1口目、2口目と効用を合計させていくわけです。
すると、15口あたりから、効用の合計は700くらいで止まっている図になる(この数値についてはあくまで例)。つまり効用の合計は逓減していきいずれ頭打ちが来るということが言いたいわけです。
経済学では、一定期間内に消費される財の数量が増えるにしたがって、得られる一回あたりの効用が減少することを限界効用逓減の法則と呼びます。
これを表で見たい人は以下ご参照(数値は個人差があります)
「いや、20口目もおいしいよ」と思う人もいるかもしれませんが、食欲は満たされつつあるのですから、どこかで頭打ちになることは確かではないだろうか(ともすれば、30口食べさせれば味に飽きる、お腹がパンパンなどで効用合計までも減少し始めるがここでは省略)。
つまり幸福が逓減性を持っていることを示しています。どんなことを当てはめても成り立つでしょう。どんなにすばらしい旅行でも、もちろん新たな発見をすることによって効用は0にはならないかもしれませんが、1回目に見た素晴らしい景色の感動には及びません。1回目のデートは100の効用があるとしても、30回目のデートでは効用はすでに半減していても驚きません。
補足:効用の「一時性」
先ほどの「回数による逓減性」の補足として、時間の経過によって喜びは永続しないという効用の「一時性」を紹介します。(感の良い方は先ほどと同義であることを見抜いてくださるでしょう)
おいしい肉を食べた瞬間の喜びはあくまで瞬間の喜びであり、この喜びを次の日思い出しても同じ喜びの大きさを味わえるわけではない。素敵な人と結婚できた喜びは、プロポーズの瞬間や結婚式の瞬間の喜びは極めて大きいかもしれないが、すでに30年後にはその大きな幸せは永続していない。
また例えば病気が治って健康な状態が幸せだという人にとっても、健康であればあるほど健康な状態を幸せだと感じる喜びは時間の経過に従って減少していく。これをグラフで表すと以下の通りになります。
例えばオリンピックで優勝した人がいたと。その瞬間の達成感は至福のものであろうが、8か月にはその瞬間の喜びは半分になり、「オリンピックで金メダルを取った」という事実(データ)による喜びのみでしょう。
これは想像のみで話しているわけでなく、実際私もあるスポーツで全国優勝をした経験があります。その後3か月ほどは至福で何があっても機嫌が良かったのを覚えています。しかし、その後学校を卒業して環境が変わり、その至福はどんどん忘れていってしまいました。
これらから分かるように、幸せは永続せず時間の経過に従って逓減する かつ 頻度を増やしたとしても一回当たりの満足感は逓減する のです。
↑この一文が理解できる方は非常に聡明な方だと思います。
②幸福の「不確実性」
次に示したいのは、
A「求めた幸福の対象が得られるかは分からない」
&
B「対象を得たとしても思っていたような幸せを享受できるか分からない」という点です。
これを「幸福の不確実性」と呼ぶ。このAとBのどちらかいずれかは要素として持っているのではないでしょうか。
これを分かりやすく表で示しました。
A | B | |
恋愛 | 好きな人と付き合えるかどうかわからない(振られるかもしれない) | 付き合えたとしても付き合う前に想定した幸せを享受できない(相手の嫌な部分を知る等) |
旅行 | 旅行できる日を作れるか分からない、お金を貯める必要がある、台風で飛行機が飛ばない可能性がある | 悪天候で景色が悪かった 観光地へ行ったが思っていたよりも感動しなかった |
スポーツ | どんなに努力しても大会で勝てるとは限らない、ケガをして継続できなくなる、チームの資金がなくなる | 優勝したが思っていたほどの感動や達成感がない、優勝したがゆえに重圧を感じるようになった 妬まれた |
本やドラマ・映画 | 面白いと思える素敵な作品に中々出会えない、ドラマのリアタイを見逃してしまった | 出会えたとしてもすぐ終わってしまった、すべて見終えた 最高の作品に出会えたと思ったのに、見返したら面白く感じなかった |
これを見て、「著者はなんと悲観主義なんだ、これらがその幸福を求めない理由にならない!」と思うかもしれませんね。それは普通の感情でしょう。しかしよくよく考えてみてください。
これらが起きうる可能性は否定できないだろうし、実際に該当する経験もあるのではないでしょうか?
つまり、一般的な幸せが幸せとは限らない根拠②は、求めても得られない可能性と得られても、求めただけの効用が得られない可能性があるということである。
幸せの「欲求増大性」と「相対性」
次に幸せの「欲求増大性」と「相対性」という2つの関連しあった要素を示しましょう。
あなたが食べている焼肉がとてもおいしいと。しかし全く同じ肉を食べてもいずれ満足できなくなっていくことは既に①効用の一時性でお伝えしました。
そして次に、あなたがもしもっといい肉が存在するということを知っていれば、「今度はもっとおいしい肉を食べてみたいな」という風に思うのではないでしょうか。これも欲求増大性の一つです。
もっと分かりやすい例でいうと、欲しかった時計を手にしたが、数か月後にはもっといい時計が欲しくなった。
または昨日異性と性行為をしたことで、「次もしたい、もっとしたい」といったように昨日満足したはずが、むしろ欲求が増大していると(これは②一時性に関連しています)。また同じ対象、同じシュチュエーションでは飽き足らず、「他の魅力的な異性と(場所で)してみたいな」というようにより大きな刺激を求め出します(これは①の効用逓減と大きく関連)。
そして相対性についてこれら時計や性行為の例でいうと、「自分の得たものよりももっといい対象が世の中に存在しているかもしれない」という認識によって、自分の得たものを相対的に低いもの(最高のものではない)として感じることがあります。
場合分けすると、「自分が経験してきた中でこれは相対的に低い水準のもの」という自分基準の相対性と「他にもっといいのがあることを知っている、自分のよりいい対象を得ている人がいる」という他者比較の相対性があると説明すると分かりやすいかもしれません。どちらにせよ、競争意識の大小拘わらず相対の世界からは抜け出せないわけです。
これらの要素は「いや、自分はそうじゃないよ」という方もいるかもしれないが、自分がこだわるものについて考えた場合、当てはまるものがあるのではないでしょうか。例えば、職、住んでいる家、恋人の容姿、保有する車などではどうでしょう?
つまり根拠③としては、得ても得ても「もっと得たい」という欲求が増大することと、得た効用を相対的に捉えざるを得ないということによって、幸せは限定的であると言えます。
この項目③は少し難しいですね、、
まとめ
これらのことから、「一般的な幸せ」は
①「一時性(時間の経過による逓減性)」と「回数を増やすことによる逓減性」を持つ。さらには、
②「得られないかも知れない不確実性」と「得ても思ってたのと違うという不確実性」を孕み、
③「欲求増大性」と「相対性」という要素があります。
一般的に幸せとされることに疑問を持つ人がいるとすれば、それは当然のことではないでしょうか。
では何を求めて生きたらいいのだろうかと。この議論をもう一歩昇華した文章を書くには自分の成熟度が足りませんので今の段階ではあえて書かないこととします。
しかし、私は今「では何を求めたらいいの?」という疑問への回答(仮説)をもつことができ、人生の価値を感じることができています。
そしてそういった答えが必ず存在していて、他の方もその答えを求めていればいつか出会えると思います!この文章が何かしら皆さんの人生を紐解くヒントになれば幸いです!
Thank you for reading!